マスコットの韓青ロボも参加 |
韓青東京ブログの管理人、スミスです。
4月といえば、私たち韓青の誕生の契機となった韓国の四月革命ですよね。それこそ、4月の若き獅子を自認する私たちです。気持ちも大いに前のめりです。
日本では「革命」って言葉はなかなか馴染みがないですよね。私もはじめて祖国の四月革命を知ったときは、「祖国は革命が起こったことがあるのか!これはスゴいな!」と思ったものです。
ちなみに憲法の前文にもこの事実ががっちり確認されています。
悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に即して正義、人道と同胞愛を基礎に民族の団結を強固にし...(Wikipediaより)
はい、P's! |
その他にも地域での実践、広範に発信して誰もが参加しやすい仕組みについてなど、積極的で建設的な意見が多数出されましたので、今後の実践を期待してください。
統スポ拡大版も |
今回は情宣ビラも「統スポ」スタイルで行い、たくさんの方に手にとってもらいやすいように工夫しました。「統スポ」シリアス版ですね。
それほど長い時間ではなかったですが、戦争に反対し平和を求める私たちの主張に、多くの方々が賛同の意を示してくれました。声をかけてくれたり、じっくり話し込む人も少なくなかったです。みんな、平和を求めているんです。
いよいよ2013年度の運動が本格始動しました。四月の若き獅子として、韓青東京は駆けていきますので、よろしくお願いします。
■ 四月革命とは
1950年代、政権基盤の弱かった李承晩(イ・スンマン)大統領は、進歩的な人士を「北のスパイ」として処刑、数々の不正選挙や終身大統領制への憲法改悪を無理やり行うなど、分断体制を利用しながら独裁を強化しました。また戦争でボロボロになった経済は、アメリカの支援に頼っていましたがその援助が減少すると、たちまち立ち行かなくなります。60年の総失業率は34%にもなりました。
4月の若き獅子たち
国民の不満が高まる中、1960年3月の大統領選挙で、事前買収票が4割、投票箱のまるごとすり替えなどの不正選挙で、李承晩が「92%」の票を集めるという事態が起こりました。いよいよ民衆の不満が噴出しはじめます。
慶尚南道の馬山では、投票所から野党の立会人が排除されたことをきっかけに、大規模な市民デモが発生、デモ隊に警察隊が発砲し8名の死者が出ました。そして4月11日、行方不明になっていた高校生の金朱烈(キム・チュヨル)君の死体が、目に催涙弾が打ち込まれた姿で馬山の海に浮かんでいるところを発見されると、一気にデモは拡大し、政権打倒を目指すものとして、全国各地へ発展していったのです。
「生きられない。変えよう!」
1960年4月19日、ソウルではほとんどの大学から学生が立ち上がり、そこに市民や高校生も加わって大規模市民デモ起こります。そして民衆が大統領官邸に向おうとすると警察が発砲!こうして4月19日は「血の火曜日」となったのです。
先頭に立った学生たち
しかし民衆の勢いは衰えず、25日には大学教授陣もデモに参加、そして翌26日、追い込まれた李承晩はついに辞任を発表。4・19から李承晩退陣までに倒れた犠牲者は200人近く。多くの血を流しながら、民衆は独裁を打倒したのです。
独裁から解き放たれた韓国社会では議論が活発化して統一運動も高揚し、1961年5月には南北学生会談が南側から提案されるなど、統一を求める民衆のマグマのようなエネルギーが噴出しました。4月革命は韓国の民主化闘争の原点であり、統一運動を生み出した原点でもあるです。
立ち上がる民衆
しかし、米国の後押しを背景に5・16軍事クーデターで登場した朴正煕(パク・チョンヒ)軍事独裁政権は、四月革命の成果を軍靴で踏みにじりました。民主主義は蹂躙され、反共の旗のもとに統一運動も封殺されてしまったのです。そうして、四月革命は「未完の革命」といわれるようになります。
しかし、四月革命の正義の闘いと勝利は在日同胞にも大きな希望を与え、「統一運動の烽火」を継承する私たち韓青が誕生し、四月革命精神を継承・発展させてきました。
(韓青Wikipediaより抜粋)
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